そのあと

とても気になっていた、私の育った所の極々近所にある筈の小松帯刀の屋敷跡へ。私が原良に住んでいたのは高校一年ぐらいまでだった?残っているのは両親の離婚とか、祖母との毎日の確執とか、親戚間のゴタゴタとかの記憶だけだと思っていたのだけど、二卵性双生児の従妹と話してるうちに楽しい思い出もあったことに気づいた。

この看板というか標識はつい最近掲げられたらしい。理由はそう、篤姫小松帯刀がクローズアップされたところによる。私はこの原良町1941番地ってとこで高校一年ぐらいまで育ったのだけど、この小松屋敷は18○○番地だから、ホントにすぐ近くで子供の頃はこの看板のとこにあったヨロズヤさんに、祖母に頼まれてマルボーロを買いに来てたもんだ。あと、この看板の対面の散髪屋さん、今でも名前変わらずに営業してたけど、ここでカットしてもらってた。

小松帯刀屋敷跡(鹿児島市)・写真満載九州観光
年寄り達が「こまっどんの屋敷」と呼んでいた「小松殿の屋敷」、確かにこの立派な塀には覚えがあり、遊びに来てたんだのに、こまっどんって人のこと、誰も教えてくれなかった。小学校の社会科の時間にでも、ここまで連れて来て、地元の偉人について話ぐらい聞かせたりしたってよかっただろうにって思う。鹿児島に生まれて、幕末から明治維新の頃に沢山の人を輩出した地でありながら、生きた教育ってなされてなかったのだろうと思うと悔しい。私も従妹も中々なんだのに、小松帯刀のこと知ったのが大河ドラマってのが情けないと思う。鹿児島は至る所にそんな場所があるんだろうに、それをうまく伝えてないよなぁ。例えば森有礼の生家跡だって、なんの変哲もない道端にポツッと石が立っていたりするんだ。
そして、二卵性双生児が子供時代を過ごした原良町1941番地の昔住んでた家を見に行った。私の家(両親が離婚するまで住んでた家)は木造二階建てだったのだけど、現在は同じ建て方で壁がモルタルになっていた。玄関のつくりも位置も全く同じだった。うちの家は何故か玄関の間があって、ガラスの引き戸をあけて、上がりかまちからあがると、そこには二畳の玄関の間。そして、右側に応接間(和室6畳で床の間だの組子の障子の出窓だのあった)左側に茶の間とか、バァちゃん(父の母)の部屋、玄関の間から二階に上がる階段があり、両側に部屋があった。多分その頃としてはいい家だった?そして、父が全く家に帰らず、お金も入れてくれないから、部屋を貸してたっけ。常時3組くらいは間借りしてる人がいた。記憶にあるのは新聞社のお兄ちゃん(南日本新聞の記者)、学校のお兄ちゃん(鹿児島実業高校の学生)大学のお兄ちゃん(鹿児島大学生)ナドナド。でも、40年ぶりくらいに行って、改めて見ると、なんてちっぽけな家で、劣悪な環境だろう!!って思ったよ。だって、あの頃近所の子供達とお姫様ごっこや、チャンバラや鬼ごっこやかくれんぼ、ゴムとび、ケンケンパーなんてやってた道路って、幅が1,2メートルぐらいしかなくって、超狭いし、車なんて入れないし〜!!丁度雨降りだったのだけど、未だに舗装もされてなくって、ぬかるみだらけだったんだ〜。ふと見上げると、嫌で堪らなかった墓参りしたお墓群も山肌に見えた。すご〜く遠かった気がしたけど、今見ると超近い。そして、十五夜の頃に子ども会だかで相撲大会とかやった広場のあったもうひとつ違う筋にも行ったのだけど、全てが超小ぶりだった。こんな狭い道だっけ〜?こんな狭いとこでよく相撲大会とか出来たなぁ?って思った。
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